vol.72
吉田和司 Kazushi Yoshida
Open and closed sequences 漂う道具
2014.8.9-8.24
一見、ここにあるものたちは、何気ない日常の道具や部品、あるいはどこか道ばたで拾集されたような風情をしている。それはどれも端正で美しい佇まいだが、ふと目を留めてよくみると、両側に取っ手のついたスプーン、掃くに掃けない、掛けるに掛けれないハンガー?あるいは箒?…「待てよ、何かおかしいではないか」という具合である。
この用途をなさない造形物たちは、一介の道具の枠に留まらず、( あるいはそれすらも果たさず)、みているうちに、不思議の国のアリスのように、時空間やわたしたちの常識の隙間にするりと入り込んでくる。かく言うわたしも、この何の役にも立たない「とても美しくて、変な道具たち」を鑑賞し、賞賛し、コレクションしている一人である。
今回も蒐集癖に火がついて、すでに妙なテンションでうずうずしている。
吉田和司の作品はいつも独特の美学を持ちながら、空間にいつの間にやら鎮座して、私たちの日常を刺激する。そうして、微量のユーモアと多分の意識下の覚醒材料を孕んでいるに違いない。
正木なお
「道具」はどのようにして存在し続けているのだろう。何かを作る、何かをするには道具は欠かせない。たとえば器であれば、かたちは様々だが溜めるという役割を備えていないと器としては使えない。しかし溜めるものが水でないのなら、網状になっていても構わない。収穫した作物を入れれば、土を洗い流すことができる。
役割を備えた道具はその環境において、使う人達が使いやすいように問題を解決し改良されて時のなかで残っていく。しかし、すべての改良へのこころみが問題の解決にいたってきたのだろうか。そんなことはないだろう。では、こころみの失敗のなかで生みだされたものが、新たに役割をもつとはどういうことだろうか。まれに不意に目の前に姿をあらわす過去の問題の解決としての用途の分からない道具。それは主流になれず、過去においてその流れが途切れてそこに残ったものであるが、むしろそれは消費されずに残された漂う発想である。
それらに対面した時、見る者の今までの経験に回収されるが、そこでそれを見たというあらたな体験が、身体的な記憶を辿り、時間を行き来する。道具という事物に積み重ねられてきた、非常に長いスパンの解決の存在に触れることができるのではない
だろうか。
吉田和司
吉田和司 Kazushi Yoshida
1978 三重県生まれ
2001 武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業
2005-2007、2009 四谷アートステュディウム在籍
「使えなさそうで使えそうな事物」に関する道具性について、オブジェクトとパフォーマンスの面から制作を行っている。
主な展覧会に「吉田事物屋 Remarks on the selected junk code.」(路地と人)、「イメージの世界」(gallery feel art
zero)、「Wandering series」(森岡書店)、「時のおとしもの( GALLERY OBJECTIVE CORRELA TIVE)。パフォーマンスに
「Explosion」(BankART Studio NYK)にて《即興的道具考》、「Fussa Stolen Base」(福生野球場)にて《radio/human/no
voice》など。2009 年から美術家のユニット「ミルク倉庫」としても活動。(http://milksouko.com/)